法的義務を守るためのメンタルヘルス | さんぽJOB

法的義務を守るためのメンタルヘルス

人事労務担当者の皆さまについてはご存じのこととは思いますが、企業においては「安全配慮義務」が義務付けられています。労働者の生命・身体・健康が害されることがないように配慮する義務です。違反した場合、民事上の損害賠償責任だけではなく、刑事上・行政上の責任を負う可能性があります。安全と聞くと、ついつい危険作業や有害業務を連想してしまいがちですが、今回はメンタルヘルスの観点で安全配慮義務についてご紹介させていただきます。

1.安全配慮義務に関する法律

安全配慮義務について触れられている法律としては、「労働契約法」「労働安全衛生法」があげられます。労働契約法第5条では、労働者の安全への配慮として、使用者は労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする、と定められています。労働安全衛生法第3条1項では、使用者の務めとして、安全と健康を確保するためには、快適な職場環境の実現と労働条件の改善を行わなければなりません。

安全配慮義務を怠り、労働災害を発生させてしまった場合、企業は法的責任に問われます。労働基準監督署から労災事故の調査を受けたり、行政指導や行政処分を受けたりすることもあります。 また、労災保険を使うと、場合によっては会社の保険料が増額されることもありますし、労災事故があったことが明らかになると会社の評判が悪くなることもあります。特に精神障害による労災認定は、企業イメージの低下、離職者の増加、採用難にも直結しやすく、多くのデメリットを抱えてしまいます。

参考: 精神障害の労災認定|厚生労働省

2.精神障害の労災認定

精神障害の請求、決定及び支給決定件数の推移

精神障害の労災状況について調べたところ、労災請求件数、決定件数、支給決定件数は年々増加しています(図1参照)。ニュースなどで大々的に取り上げられ、制度の認知度が高まったことが増加の背景にあると言われています。一般的に、精神障害での労災は個別の状況により判断されます。身体的な怪我の場合は、この作業をしていて、このような動作をしてしまったがために、負傷したと説明しやすく因果関係の証明もしやすいケースが多いです。
しかし、精神障害の場合、発病した原因が業務によるものであると証明することが困難です。そういった状況にも関わらず、請求件数、決定件数、支給決定件数は年々増加しています。

精神障害は、外部からのストレス(仕事によるストレスや私⽣活でのストレス)とそのストレスへの個⼈の反応しやすさとの関係で発病に至ると考えられています。精神障害が労災認定されるのは、その発病が仕事による強いストレスによるものと判断できる場合に限ります。
仕事によるストレス(業務による⼼理的負荷)が強かった場合でも、同時に私⽣活でのストレス(業務以外の⼼理的負荷)が強かったり、重度のアルコール依存があったり、ストレスに対する反応しやすさ(個体側要因)に顕著なものがあったりする場合には、どれが発病の原因なのかを医学的に慎重に判断します(図2参照)。
そのため、精神障害の場合、様々な要因で発症すると考えられ、労働災害としての申請は難しいと言われているのです。



精神障害の発病について

参考: 精神障害の労災認定|厚生労働省

3.精神障害の労災認定要件

精神障害の労災認定のための要件は次のとおりです。この3要件は基本となるもので、これらについては大きく変わることはありません。

1.認定基準の対象となる精神障害を発病していること
2.認定基準の対象となる精神障害の発病前おおむね6か⽉の間に、業務による強い⼼理的負荷が認められること
3.業務以外の⼼理的負荷や個体側要因により発病したとは認められないこと

2023年9月には、業務による心理的負荷(ストレス)評価表について見直しが行われ、精神障害の労災認定基準を改正しました。業務外で既に発病していた精神障害の悪化について労災認定できる範囲を見直すと共に、速やかに労災決定ができるよう必要な医学意見の収集方法についての見直しが行われました。特に、悪化前おおむね6か月以内に「特別な出来事」がない場合でも、「業務による強い心理的負荷」により悪化したと医学的に判断されるときには、業務と悪化との間の因果関係が認められるというのは、大きな改正ポイントかと思います。


参考: 精神障害の労災認定基準を改正しました|厚生労働省

4.従業員からの申し立てについて

労働災害は私傷病のときと使用できる補償制度が異なります。労災保険制度が適応されるため、通院費や休業中の賃金の代替えなどの制度があり、私傷病のときよりも補償が手厚くなります。休業補償も私傷病の場合は、給料の3分の2が傷病手当金として支払われますが、労働災害の場合は約8割の補償がなされます。医療費についても、私傷病の場合は自己負担3割ですが、労働災害の場合は療養補償給付により自己負担がありません
労働災害の申請は本人が行い、労働基準監督署の調査の上、認定可否が決まります。もちろん、これらは精神障害に限った話ではなく、全ての労働災害が該当します。

本人から「労働災害として申請したい」と申し出があったとしても、従業員の言葉だけを鵜呑みにして、申請するわけにはいきません。かつて私も従業員の健康相談に応じていた際、精神障害を発症したので労働災害として申請したいと診断書持参の上、相談されたことがあります。そのときの対応として、まず社内調査で関わっている人たちに聴取をし、事実関係の調査を行いました。もちろん被害を訴えた従業員の了解を得た上で実施しました。特に事実関係の調査には、かなりの時間と労力を割きました。場合によっては、主治医からの意見聴取、家族からも情報収集しました。そして収集した情報をもとに、労働基準監督署に相談に伺いました。そして、監督署の職員からこの情報を収集して提出するようにと言われて、再び対応していきます。

かなりの時間や労力を費やした結果、私が関わった事案で、労働災害として申請したケースはありませんでした。「せめてものお金と思って労働災害として申請しようと思っていたが、自分のためにここまでしてくれた会社に対して、申し訳ないという気持ちがでてきた」「この会社に居場所がないと思い辞めるつもりでいたが、自分はまだこの会社で必要とされているんだと思えるようになってきた」と言って、いずれのケースも申請を取り下げました。

おそらく退職するつもりで、私に「申請したい」と相談してきたのでしょう。最終手段として法的措置にまで出ようとしていたのに、その思いをとどまらせることができたのは、会社の「思いやり」「優しさ」によるものではないでしょうか。従業員にとって、全てが解決に繋がったわけではないと思いますが、聞き取り調査を通して関わりを持つことで、事態を好転させたように思います。貴重な従業員を退職に追い込むことを防ぐことができました。もちろん法的義務を守るために、メンタルヘルス対策を講じるのは重要なことです。それ以上に、従業員の訴えに対して真剣に耳を傾けることが重要に思います。保健師は傾聴のトレーニングもつんでおり、従業員の訴えに耳を傾けることができます。従業員のメンタルヘルスケアを充実させるためにも、産業保健師の配置は有効です。



<執筆>
阿部 春香(保健師、産業カウンセラー、第一種衛生管理者)

日本産業衛生学会、日本産業保健師会に所属する。2024年に日本産業衛生学会の産業保健看護専門家制度登録者として登録する。
広島大学大学院(博士課程前期)を修了後、健診施設に勤務する。現在、中小企業の保健師として勤務し、健康経営の推進を行っている。
働く全ての人に産業保健を届けたいという思いから、産業保健職として産業保健の社会的認知を広げるための活動も行っている。